バプテスマ無効請求なるものは、錯誤による自己責任を理解していない。(緑字追記) | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

ストーカーのように私を付け回し、リブログまでして私への間違った印象操作を与える人がいます。たとえば私が鞭を受けた2世のことを理解していないような論調で、鞭を受けた人を味方につけようとする方法は実に姑息で卑怯で狡猾です。とにかくやり方が汚いですね。

 

まあ私の記事を読んでいる人は私は決してそうでないことを知っていますが、小学生の算数レベルの理解力しかない人はそういう人の餌食になって、穴に落ち込むようですので言っておきます。

 

実は私は今は彼らの記事をほとんどすべて読んでいません。カブトカメムシ1号2号、元祖も本家も読んでいません。毎日ヒステリックな言葉遣いしか綴れない、私をお前呼ばわりした恐ろしい女性の記事も読んでいません。常に現役を侮辱することで快感を覚えたり、あるいは自分がエリートなんだということを暗に訴えたいようだからです。読むときはまとめて読みますが、今はほとんど読んでいません。

 

大体エホバの証人の女性は相手が長老というだけで目がハートマークになる人が多いですね。男性といわゆる肉体関係はおろか親密に交わる機会がないので、経験値の低さから長老という肩書だけでカスを掴む女性が少なからずいます。ブログで自分の両親は愛おしく描写し、配偶者の両親や家族をくそみそにけなすカスみたいな男性を掴むこともあるのです。何しろ嫁にブログをしていることを隠しているようですからね。まあ大体彼らの評価は私の中では確定していますので今更読む気もしないのです。

 

絶対に読むのは宝石さんのブログですけどね。

 

とは言え自分の記事がリブログされると読んでいました。で、リブログ者は相変わらず頓珍漢な指摘しかしないので面倒なのでリブログ拒否したのですが、そんな失礼な人間の下劣な態度で左右されることもないなと思ってリブログ拒否を解除しました。そうすると早速リブログされました(笑)。入れ食いで食いつくダボハゼのようですね(笑)。

 

それでも自分が思いついた「バプテスマ無効請求」が無意味だと言われたのが、よほど「くやしいのお」と感じたようですので改めて追加で説明します。なおバプテスマ無効請求が無意味なことについてはすでに完全に論破していますのでそちらをお読みください。「待ってます」とか言っていますが既に十分説明していることですのでそれを読んで理解できないようでしたら無駄でしょう。

 

 

 

 

 

今日は上記記事への追加です。これは私の過去記事↓へのコメントで「ああ、なるほどね」と感じたことです。

 

 

 

この記事に対して次のようなコメントがありました。

 

お前たちに献身したのではない!
同感です。
それを知らしめるためにもバプテスマ無効請求しています。
あなたも一緒にいかがですか?

 

このコメントで彼と私のバプテスマに関しての認識が根本的に異なると理解できました。バプテスマを受けた当時の私は統治体はあくまでもガイドランナーにしかすぎず、月桂冠を与えるのは神であるという認識であり、だから神に献身をしたのだという認識です。献身した対象は神ですので、統治体はそれを妨げることはできないというものです。

 

それはローマ8:37-39に基づく認識です。

しかしその逆に,わたしたちは,わたしたちを愛してくださった方によって,これらのすべての事に全く勝利を収めているのです。 死も,生も,み使いも,政府も,今あるものも,来たるべきものも,力も, 高さも,深さも,またほかのどんな創造物も,わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛からわたしたちを引き離しえないことを,わたしは確信しているからです。

 

この「ほかのどんな創造物」の中には勿論統治体も含まれています。(こんな聖句をかみしめたこともないんでしょうね、きっと)

 

ですからコメント者の「それを知らしめるためにもバプテスマ無効請求しています。」というのはまさに統治体によって引き離されていると告白しているようなものです。あるいはコメント者の献身の対象が神ではなく統治体であったということです。この人にとって神は統治体の創り出した像でしかないのです。根本的に創造者を信じていません。(まあ神に対して敬虔な信仰があれば今示しているような不敬虔な態度を持つことはないでしょうね。)

 

さて同じバプテスマという外形的儀式でも、この人の献身の対象が統治体であったがゆえにバプテスマ無効請求なるものをしていると理解できたので「なるほどね」と思った次第です。

 

ただし統治体自身はと言えば、自分たちが不謬(ふびゅう)ではないことはすでに1970年代の年鑑でも認めていました。確かに自分たちは神の唯一の経路だとは言ってはいますが、一方で逃げ道は用意しています。タッキングなる説明もそのひとつです。でもそれこそ統治体が自分たちは間違うことを認めたようなものです。ところが彼はそれを理解しないでバプテスマを受けたのです。こういうのは法律用語で言えば「錯誤」というものに該当します。

 

不動産取引で「錯誤」による無効請求というものについて説明しているサイトがあります。

 

 

民法95条:意思表示は、法律行為の要素に錯誤があったときは、無効とする。ただし、表意者に重大な過失があったときは、表意者は、自らその無効を主張することができない。

 

もともとバプテスマなどは法律行為ではありませんが、このコメント者の主張の根拠を理解するのにわかりやすいかと思います。この人は統治体は神の唯一の経路だと思ってバプテスマを受けたのでしょう。でもそうではなかったので無効にしてくれというのです。

 

しかしながら統治体は自分たちが不謬ではないと言っていますし、「神に献身しましょう。」と言っています。あくまでも自分たちは経路にすぎないとも言っています。神の聖霊が注いでいるかいないかなどというのは証明できないものです。信仰の問題ですのでいまだに統治体に聖霊が注いでいると信じている人にとっては統治体は唯一の経路ということになります。とにかく証明できないものですが、少なくとも統治体は「神との個人的関係」を結ぶように常に言っていますので、バプテスマを受けた人たちはそういう信仰を持って受けています。

 

ちょっと難しい話になりましたが、例えばサプリメントのCMで健康の効能について宣伝していますが、必ず「あくまでも個人の感想です。」という文言がありますね。この一文で会社側は錯誤による訴訟を回避しているのです。もしサプリメントを買った客が「CMでいう効能がなかったぞ」と言って会社に殴り込むならば逮捕されます。「ちゃんと言ってるでしょ」と言われるのです。その言葉を読もうが読むまいが、読んだと判断されたうえで購入の意思を示したのですから過失は表意者にあります。

 

バプテスマを受ける際に「あなたは神に献身しましたか」という質問に対して公の肯定宣言をすることで自分の意思を表しています。「はい」と答えた時点で表意しています。普通のエホバの証人は錯誤をしないで神に献身しています。この表意行動をしている以上表意者にその責任はあるのです。つまり「重大な過失」をしていることになり無効請求は却下されます。実際は統治体に献身していたとしても、それは自分の気持ちを正しく吟味できなかっただけのことですので責任は表意者にあります。ですからバプテスマ無効請求などというのはまともな信者から見ると途方もなくバカゲタ行為なのです。こういう屁理屈の極みなど常識人は思いつきません。

 

現実はバプテスマを受けてそれなりに楽しんでいた時期もあったはずです。事実「僕は長老をしたかったのに無理やりおろされた」などというのは、バプテスマを受けなければ生じえない感情です。

 

長老や奉仕のしもべなら他の人にもバプテスマを受けるように勧めていたはずです。これはサプリメントを購入して最初は効果があって喜んでいて他人にも勧めていたけど、途中で徐々に効果が薄れてきたので、購入契約を無効にしてくれと会社相手に訴訟を起こすようなものです。無効にしてほしかったら途中で定期購入の契約の解除を申し出ればいいのです。しかし最初の購入も無効にして金銭を返してくれというような人間が出てくることはけっしてないでしょう。そんなことをするのはかなりひどいモンスターーカスタマーでしょう。私にモンクレと言われて不満だったようですが、そのモンスターぶりは十分発揮しています。

 

それとどうも無効の意味をよく理解していないようですが無効というのはすべての権利を失うことです。ですから「私たちは立派なエホバの証人です。」などと吹聴する権利すら失います。もし無効を願っているのであるならば、今の自分がエホバの証人であることを誇らしげに語ることはないでしょう。その矛盾に気がつかない人間とまともな話し合いなどできないのです。1プラス1が3になると言い張る子供に算数を教えられるでしょうか。そのように言う子供は自分の創り出した算数の世界で計算していればよいのです。ただし誰も理解できません。

 

過去記事でも触れましたが、無効請求するのは忌避を避けたいからでしょうが、実質今は忌避されている状態でしょう。何の効果もありません。また忌避を避けたいのであるならば有効であるという立場でないと権利の主張はできません、無効請求はすべての権利放棄ですからね。

 

さて「あなたも一緒にいかがですか?」というお誘いの言葉ですが、この人物から見れば、ご自身のバプテスマの動機や認識が私と同じものだと理解しているのでこういう質問が出たのでしょうが、私から見れば動機も認識も崇拝対象も全く異なるので、残念ながらバプテスマ無効請求などというバカゲタ運動に加わることはないでしょう。同じバプテスマでもこの人から見れば同一にみえ、私から見れば異なるものであるというのは、バプテスマに対する認識が私の方が正しく持っていることになるのです。

 

説明します。たとえばコロナも風邪も同じだと言っている人もいますが、やはりコロナと風邪は症状は外形的には同じでもやはり異なるというのが正しい理解でしょう。まあコロナも風邪も同じだという人の中にはワクチン接種反対運動を起こし、多くの人の命を危険にさらすようにしていますので有害ですね。小学生なら風邪もコロナも同じに見えるかもしれませんが、少し分別がつく大人になれば違いはわかります。理解力のある人間が区別ができるのです。つまり場合分けができるのです。それでも大人でも同じだという人がいますね。このことからわかるように一般的にも小学生並みの知性しか持っていない人はわんさかいるということです。

 

まあこれだけいってもわからんでしょうね(笑)。屁理屈で反論しか考えていないでしょうね。その屁理屈を並べるのを「議論がしたくてうずうずしている」と勘違いしているのです。今までずっとそうでしたからね。バラスト時代のことがトラウマになっているとか書いていましたがそれも自分が蒔いた種であるということは認めません。地元の会衆の長老に会いに行ったときに袖にされたのも、それまでの日常で面倒な屁理屈ばかり言っていたからでしょう。親はどんな教育をしたのでしょうね。

 

そして必ずこういいます。「それはわかるんですよ、(←ここまでは道理に納得した風に見せかけます。)でもね(←ここから屁理屈を並べますwwwつまり道理に実は納得していないのです。助手席に異性を乗せることに対しての反論などからもわかるように作り話と思しきものまで織り込み、屁理屈を展開し、いつの間にか論点のすり替えをします。論点のすり替えが得意でそれを議論だと思っているようです。親告罪に関する認識はそれが顕著に出ていました。いつの間にか誹謗中傷案件を有耶無耶にするのです。一事が万事これです。)

 

 

 

 

コメントで親切にもこの人のしていることがエホバの証人全体を判断することにはならないでしょうと諭す人がいましたが、その人に対してもこの調子です。おそらく企業に勤めたことはないでしょう。あったとしても閑職でしょう。企業での会議でこういう人間がいると長引きます。道理に納得しない人間は排除されるのが社会です。許されるのはエホバの証人社会だからです。何しろ統治体は「なんてたってアイドル(偶像)」ですからねw 奴らも論点のすり替えをします。

 

テモテ第二3章。「対処しにくい危機の時代が来ます。人々は…容易に合意しないもの…になるからです。こうした人からは離れなさい。」

 

対処しにくい人間は離れるしかない、つまりいちいち相手にしていられないのです。と言いつつもかまってちゃんをかまってあげましたw

 

ついでながらわざわざ私のHNをハッシュタグにしていますが、こういうのは私個人への誹謗を集めようとして言う、どすぐろい意図を感じます。ツィッターで私の誹謗中傷をしているメンバーの中にこの人がいることは明白です。このように相手が嫌がるだろうということを思いついたら実行するその性悪な態度「桶は誹謗中傷している」という主張を相殺して余りあります。虫の好かない相手を困らせてやろうという低俗な精神態度です。同じことを協会に対してもしているのです。バプテスマ無効請求などという愚にもつかぬことを思いついたので実行しているのです。すでに協会は回答していますし、それ以上相手にする必要性はないのです。

 

また私のことをお爺さんといって揶揄するのも社会性を備えていないことは明らかなのですが、知的レベルが小学生並みなのでまあそう見えるでしょう。ただ一つ言っておきますがこの人もいずれ年を取るのです。いずれお爺さんになります。今その言葉を侮辱的に用いていますが、このような頭が小学生並みの人間がお爺さんになると厄介なモンスター老害になるのです。

 

「親告罪だから第三者は口を出すな」というのは「だったら警察に訴えれば」という言葉を常習的に口にするのと同様反社会的組織特有の開き直りの態度であり、その精神態度がすでに問題です。とにかく「吾輩の辞書には『反省』の文字はない。いつも私が正しい。」と言っているようなものです。

 

 

 

どうやら劣等感と被害者意識が強く、愛情不足の家庭で育ち、意地悪をすることで癒されるのでしょう。愛されたいというのはかまってちゃんなのです。下記の記事はよく分析されています。